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WASEDA STREET JOURNAL アーカイブ

2009年06月08日

WASEDA STREET JOURNAL - Vol.0

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ヤーマンです。唐突に出てきて何くわぬ顔で挨拶してスイマセン!
今回からSCUBAウェッブサイト/コラム担当となりました、石井タカアキと申します。

自分はPolePoleTaxi Soundsystem(ポレポレタクシーサウンドシステム)という名前で、SCUBA唯一のルーツレゲエセレクターとして日々レゲエしかかけないで浮き まくってるのですが、ここでは懲りずにレゲエの魅力であるとか、今もってダンスミュージックに確かな遺伝子を残すダブミュージックについて、その歴史で あったり、良い盤やアーティストの紹介などなど、出来るだけ自分なりに書かしていただこうかな、とこのように考えております。

コラムタイトルはSCUBAの本拠地である中野ヘビーシックゼロがございます、早稲田通りにちなみまして「WASEDA STREET JOURNAL」と名付けました。
もし会場が移ったら、その時はまた「KYU-YAMATE STREET JOURNAL」とか改題しますのでご安心ください。UNITに移る前提で改題してスイマセン!

まぁ、突然ポレポレタクシーなんていう訳の分からないヤツにレゲエの話されてもひかれるだけだと思いますので、今回は簡単に自己紹介をさせていただきます。
以下プロフィールを。


【PolePoleTaxi/PolePoleTaxi Soundsystem】

1999年頃よりソロとしてトラック制作やイベント企画、 OneInchPunch-Labelでのリリース等の活動を行ってきた石井タカアキがレゲエにどっぱまり、そのミステリアスなリディムと音響の謎を解き あかすべく、YAMAHA QY-70を用いたレゲエ・ダブ研究ユニット(ダブ研)として2002年頃より活動を開始。数度のライブや、レコーディングセッションの後、QYとシンセ ベースで組み上げたリディムにピアニカをはじめとした生楽器を重ね、ダブワイズを施す現在の手法に取り合えず落ち着くも、まだまだ模索中。
2007年にはコンピレーションアルバム "Personal Telemetry System"(OneInchPunch-Label/telemetry)に楽曲を提供。2009年リリースのアルバム、hanali/toki takumi "Spesial Musicu"(telemetry)にトラック提供・セッションで1曲参加。同じくhanaliやChew-Z(a.k.a. BIKEBOY)のライブへダブミックス・サウンドエフェクトで客演。
それらの活動と並行して、2006年よりPolePoleTaxi Soundsystemとしてのセレクター活動も開始。都内各所のクラブやバー、伊豆山中のレイブや多摩川の河原など積極的に活動を展開。2007年より neu dubをテーマに新たな東京のアンダーグラウンドシーンを鮮やかに描き出すパーティー"SCUBA"にレジデントの一人として参加中。ルーツレゲエやUK ニュールーツを中心に、サイレンマシーンやマイク、サンプラーをディレイで飛ばし、時には自作のダブプレートも用いるプレイは、各パーティーで好評を博し ている。2009年には初のミックスCD "SC-DUB-A"をSCUBAよりリリース。
近年巷でもてはやされているイコン、ムード、手触りとしての「ダブ」ではなく、「ダブもレゲエの1ジャンルである」をモットーに、カルチャーでありダンス ミュージックであるレゲエと、現代のダンスフロアでも有効であろうリズムフォーム、そしてダブの音響を繋ぎ合わせて提示する事を目標に日々研究中。
ウェッブ:http://ppt.oip-label.com/
動画など:http://www.youtube.com/user/OneInchPunchLabel

  PolePoleTaxiプロフィール画像


と、 こう書いて自分でも何がなんだか分かんないけど、とにかくそれまでほとんどレゲエを聴いて来なかった生粋の音響HEADZの自分が、二十歳を超えてどうし てある日突然レゲエに目覚めたのか。きっかけは下北のDISC SHOP ZEROで戯れに手にしたコンゴナッティのラガジャングル。
過去から現 在の音源が全てカタログ化されたCD以降の世代として、10代の中頃からなるたけ極端で新しい感覚を与えてくれる音楽を選んで聴いてきた中で、 mo'waxのインストヒップホップから、ノイズや電子音楽、実験音楽まで数年かけてノンストップで辿り着き、ふと止揚を感じたタイミングで出会った、そのぶっ飛んだビートとざらざらのサンプラーの質感、そしてラガマフィン。
その延長からダンスホールレゲエをつまみ食いする内に、よりルーツなDJモノ(例えばPrince far-Iだとか)から、その元曲としてのルーツレゲエに辿り着いた。
マッ シブアタックが好きだった高校生の時から、ON-Uだって既に聴いていたし、「ダブ」というキーワードは重要なものだったけれど、ルーツレゲエばかり狂っ た様に買う内に、「ダブ」は「レゲエ」の一部だって事を体感したし、それまでの自分の世界の小ささも同時に実感した。
レゲエは聴けば聴く程好きになるんだけど、聴いても聴いても一向に理解出来ないミステリアスな音楽でもある。でもそのミステリーこそレゲエの最大の魅力だと思っている。
そ れまで聴いてきた音楽のどれとも違う異常にバックビートを強調したリズム、バカでかいベース音、同時代の他所の音楽と較べると驚く程ローテクノロジーな録 音が醸し出すローファイな音響とか、そういうのは最初は理解出来なかったけど、沢山聴けばだんだんと分析出来る様になってきた。
それでもまだミス テリーは残る。それはきっと所謂体系化されたヨーロッパ音楽の歴史とは全く違う文脈で存在するいち民族音楽としてのレゲエと自分自身との「遠さ」であった り、レゲエが持つ民俗・宗教学的要素(ラスタ思想やオーベアと呼ばれる神秘主義など)がもたらすものなのかなぁ、と最近思う様になってきた。
それってホントにいつか理解できるの?!と思ったりするけど、だからレゲエはやめられねぇ、とも思ったりもする。
自分の中ではパンクロックの「パンク」じゃなくて、あり方として「パンク」を感じる音楽が三十路を迎えても未だに一番偉いと思ってるけど、筋金入りのレベルミュージック「レゲエ」は一生モノかも知れません。

ポレポレタクシーとしてのレゲエ解釈については、また折りをみてお話する機会もあるでしょうから、今回はこの辺で。
取りあえず次回から、下記の様に5回程に分けて、レゲエを理解する一助となりますよう、基礎知識/一般教養としてレゲエの歴史を概説として講義しようと考えております。

1.レゲエ前夜 - スカ〜ロックステディーの時代
2.レゲエの誕生とその盛衰
3.ダブの発見
4.ラスタファリアニズム(ラスタファリズム)の思想
5.サウンドシステムという文化

とはいえ、自分もまだまだ勉強中。間違いや認識違いなどありましたらメール・コメントにて、ご指摘・ご教授いただければこれ幸いでございます。また、感想やご意見、ご質問、リクエスト(?)とうとう、なんでもかんでもお便りはこちらに!info[at]oip-label.com([at]を@に変えてメールしてください)。

初回という事で無駄に筆がすべって次回以降の執筆のハードルを自分で上げてしまった事は否めませんが、月一回一年を目標に気負わずリラックスして書こうと思っておりますので、何卒お付き合いのほどを!


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【今月の一曲】

UKにおけるパンクとレゲエの共闘の歴史的記念碑。Bob Mary "Punky Reggae Party"でございます。オレが言わなくてもみんな言ってると思いますが、敢えて言わせてください。
「ボブは基本で」

2009年07月05日

WASEDA STREET JOURNAL - Vol.1

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ひと月振りのヤーマンでございます。ポレポレタクシー石井です。
そろりそろりと今年も暑い夏が近付いて参りましたが、いよいよ今回から5回に分けてレゲエ概論に入りたいと思います。
まぁレゲエが好きな人には蛇足でしかないのですが、「レゲエって良く分からん」と思ってる方々の世界が少しだけ広がるための入り口になればこれ幸い。
今回はルーツレゲエ前夜、ジャマイカンミュージックの花開いたスカ〜ロックステディの時代を前史的にお話させていただきます。
では張り切ってまいりましょう、赤ペン必須でよろしくラスタマンヴァイブレーションどうぞー。


【レゲエ前夜 - スカ〜ロックステディーの時代】

ジャマイカはカリブ海、キューバの南に位置する島国。コロンブスのアメリカ大陸の「発見」と共にスペイン領となり、先住民のアラワク人(アラワクインディアン)は絶滅し、労働力として西アフリカより黒人奴隷が大量に連れて来られる事になる。彼ら黒人奴隷が現在のジャマイカで大多数を占めている黒人達の先祖だ。
まぁこんな事はそれこそWikipediaでも見れば載ってる事だけど、ジャマイカ人のルーツがアフリカから連れて来られた黒人奴隷であるという事は記憶されてしかるべきだろう。この先登場するラスタ思想もレゲエがレベルミュージックであるという事も、全てこの歴史的事実にその根を持つからだ。
1670年よりイギリス領に編入され、イギリスのカリブ戦略の根拠地となり、1865年に大規模な黒人の反乱を契機にイギリス直轄地となるが、1938年にジャマイカ労働党(JLP)が設立され、1959年に自治権を獲得、現在までイギリス連邦加盟の独立国となってる。

恐らく黒人国家としての体が整うにつれて、アメリカ南部の都市との貿易の中から、アメリカにおける黒人音楽(ゴスペルやR&B、ジャズ)も含んだ文化的交流も行われるようになったと想像され、1950年代に特にジャズから強く影響を受けたジャマイカンジャズ第一世代というべきミュージシャン達が現れる事になる。(ブリティッシュジャズシーンで活躍し、数年前にテイトウワのアカシックレコードからモンド的文脈で再発された「Indo Jazz Fusions」のジョー・ハリオット(Joe Harriott)もこの世代。)
それ以前にはジャマイカの音楽はメントやカリプソといったモノが主流だったのだけれど、これらは白人向けの輸出品であり、かつカリプソ自体が汎カリブ的なフォークロアミュージックであったため、彼らジャズメン達はそういった下地にジャズ(とR&B)から受けた影響を使って、ジャマイカ人のミュージシャンである自分達自身の音楽を作り出した。
それが「スカ」だ。
何故スカでサックスやトランペットといった管楽器がインストゥルメントとして多く使われるのか、納得できるところだと思う。オレ達なりのジャズってことだね。
こうして掴み取られた俺達の「島の音楽」は、1960年代に入ると、急激かつ爆発的に流行することになる。
1963年頃には、あの偉大なるコクソン・ドッド(Clement "Sir Coxsone" Dodd)のレーベル「スタジオワン(STUDIO ONE)」のハウスバンドとして、教会所属の全寮制学校でジャズの音楽教育を取り入れていたアルファボーイズスクールの卒業生である、ドン・ドラモンド(Don Drummond)やトミー・マクック(Tommy McCook)、ローランド・アルフォンゾ(Roland Alphonso)らによってスカタライツ(The Skatalites)が結成され、多くの録音を残す事になる。
スカタライツのメンバーはワレイカヒルの生粋のラスタマン、カウント・オジー(Count Ossie)のナイヤビンギドラムとのセッションなども行っていたらしい。ラスタファリアニズムについては別項に譲るが、ドン・ドラモンドはかなりハードなラスタだったらしいし、スカタライツのメンバーでは無かったが重要なトロンボーン奏者、リコ・ロドリゲス(Rico Rodriguez)に至っては山での生活を選ぶなど、この頃から既にラスタ思想はミュージシャンの間に根を下ろしていたようだ。こんなことも、スカの来歴を窺うヒントになるかも知れない。

ここで一服。92年の日比谷野音のThe Skatalites「Freedom Sound」。



なんでこんなに裏打ちを強調した音楽が産まれたのか諸説あり、「性能の悪いラジオでノイズ混じりに聴いていたニューオリンズのR&Bが2拍4拍が強調されて聴こえたため間違ったままコピーした」とかイイ話もあるし、「オレがスカを始めたんだ」と言い出すヤツも無数にいるので、正確な所は分からないけど、前述したようにジャマイカにおけるジャズとR&Bの人気というのが大きな要因であるのは事実として良いと思う。
そこにカリブの伝統的なメントやカリプソ、先に述べたようにラスタの音楽であるナイヤビンギドラムなどの要素が混じり合って産まれたのがスカなのではなかろうか。
そしてその「島の音楽」が、ジャマイカの独立と相前後して産まれてきたという所にも歴史のいたずらを感じずにはいられない。


そんな形で開花したジャマイカンミュージックは1966年頃からまた一つの転機を迎える。
「ロックステディ」の誕生だ。
ロックステディはスカのテンポを極端に落とした音楽で、その命名はアルトン・エリス(Alton Ellis)の「Rock Steady」とその曲で踊る際のダンススタイルに拠るといわれている。
この音楽が産まれた経緯についてもご多分に漏れず諸説入り乱れているが、一説によると66年のジャマイカの夏が異常な猛暑で、ミュージシャンもその音楽で踊る観客も早いテンポのスカに嫌気がさして、テンポを遅くして演奏したのが始まりだという。またある人の曰く、ある日のスカタライツのスタジオセッションにベーシストが遅刻してきたため、天才少年ジャッキー・ミットゥー(Jackie Mittoo)がキーボードでベースパートを兼任する際に、早いテンポで演奏出来ずにテンポを落としてセッションしたのが始まりともいわれる。
これまた本当の所は分からないけれど、元々ジャマイカに存在したR&B指向をベースに、アメリカにおけるは60年代末のソウルミュージックの発展と、ある種照応しているんじゃないかという気が若干するが、いずれにせよ69年から70年代にかけてレゲエへと移行するため、短命に終わったものの、このロックステディがその後のジャマイカンミュージックにおいて果たした歴史的役割は大きなものがある。
スカの時代から続く、デューク・リード(Arthur "Duke" Reid)の「トレジャーアイル(Treasure Isle)」と「スタジオワン(STUDIO ONE)」とのしのぎの削り合いの中で、この期間にジャマイカのレコードビジネスがより発展したことや、新興レーベルの設立もこの後のレゲエの時代を準備したし、また現代のダンスホールレゲエまで続くトラック(リディム)の使い回し(同じバックトラックの上で違うメロディー・曲を録音する)というそら恐ろしい生産手法も、このロックステディ期に誕生した。
今でもこの時期のリディムがファウンデーションとしてリメイクされることもあり、古くて新しいレゲエの直系の先祖という気がする。

ではここでは本文中でも触れた、67年のアルトン・エリス「Rock Steady」をひとつ。



うーん、ステキ。気持ちよくなってきたのでもう一曲いいですか?
ロックステディでは自分的最高曲、ミスターロックステディことケン・ブース(Ken Boothe)の「When I Fall In Love」を。これが68年。



この「When I Fall In Love」をオーガスタス・パブロがカヴァーした「Jah Light」は名曲だよな、とかその「Jah Light」の名前を冠したサウンドシステムが日本にあるよな、とか広げてゆくとキリがないので、今回はこの辺で。

最後に、この年代でもう一つ特筆すべき出来事として付け加えるならば、ラスタでは現人神と考えられているエチオピア帝国最後の皇帝、ハイレ・セラシエ1世 (Haile Selassie I)が1966年にジャマイカを訪問し、ラスタファリアンに熱狂的な歓迎を受け、思想運動としてのラスタが一つの大きなピークを迎えることになるのだが、ともかく、来るべき70年代を準備するかの様にいよいよ次回、ルーツレゲエが誕生します。震えて待て!


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【今月の一曲】
Cedric Im Brooks & The Light Of Saba「Satta Massagana」
ジャマイカのエチオピア正教会では聖歌としても歌われ、「Satta」リディムとしても無数のヴァージョンが存在するマスターピースオブルーツレゲエ。オリジナルではアビシニアンズやサードワールドのものが有名ですが、オレはLight Of Saba。DJの時に気持ちを入れるために一曲目によくかけてます。



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【参考資料】
●ジャマイカ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%AB

2009年08月09日

WASEDA STREET JOURNAL - Vol.2

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ヤーマンです。
暑い毎日が続きますが、みなさま体調お変わりありませんでしょうか?ポレポレタクシー石井です。
先日、とある女性の読者から「文章が固過ぎる」とのお声を頂戴いたしました。女性ウケの悪さは覚悟しておりましたが、やはり直接聞くと普通にショックです。このコラムでは「如何にアツく書くか」ということを最大のテーマにしてるんだぜ!と開き直る事でかろうじて正気を保っている2009年の夏です。
「さいきん洋食器集めてるんだよね〜。一番好きなの?やっぱりアスティエ・ド・ヴィラッドかなぁ〜♪ 1つ1つ手作りでアンティーク風の陶器の質感がたまらないの。安いものじゃないけど、自分へのご褒美って感じで少しずつ集めてるんだ★」って無理矢理女子におもねる発言してスイマセン!レゲエの話にギャグ入れろって言われても正直厳しいです。

いきなり閑話休題してしまいましたが、今回は全5回のシリーズを予定しているレゲエ概論の2回目。ついにルーツレゲエについて書かねばならない日がやってまいりました。あまりのプレッシャーに胃がひっくり返って口から出てきそうです。
触れたいトピックは山ほどありますが、限られた紙幅でもあり、個別のアーティストやプロダクション、例えば「リー・ペリーとブラックアークサウンド」とか「ジャック・ルビーとバーニング・スピアー」なんていうテーマにつきましては、追々それぞれに項を立てて書かせて頂きたいと考えておりますので、今回はあくまでも「レゲエ」サウンドの誕生から、特にリディムにおけるスタイルの変遷、そしてダンスホールレゲエに至るコンピュータライズド以前までの歴史を流れとして考察していければ、とこのように考えております。
まぁ難しい話ではありませんので、リラックスしてラムでも飲みながらお付き合いの程をよろしくどうぞー。


【ルーツレゲエの誕生とその盛衰】

前回コラムの最後で、「ルーツレゲエが誕生します。震えて待て!」などと大袈裟に書いたものの、あらゆる事物が往々にしてそうであるように、ロックステディからルーツレゲエへの「変化」もある日突然訪れた訳ではない。「レゲエ」には確かにそのサウンドを特徴付ける確固たるスタイルが存在するけれども、例えば構造的にはロックステディなのだが歌われている歌詞の内容の変化、あるいはリディムや和声構造、楽器の使用方法のゆるやかな変化、などによって1968年くらいから70年にかけてロックステディとレゲエの境界上には沢山の曲が存在している。それらはアーリーレゲエ、あるいはルードボーイ(rude boy:不良の意)レゲエ、UKでスキンズ達に愛されたレゲエという意味でスキンヘッドレゲエなんて呼ばれてもいて、そのスジの好き者達にとってもなお、曖昧なジャンルになっているようだ。 好きなら好きに聴けばいいという話に過ぎないのだが、その音楽をなにがしかの文脈で読み解こうとする場合、この時期の音源は十把一絡げには出来ず、1曲1曲、曲単位での検証が必要になる。こういう状況の中でやはり、「最初のレゲエ曲」という議論は古くから行われて来た。
「レゲエ(reggae)」という言葉が最初に使われたのは、スカの時代から活躍するコーラストリオ、トゥーツ・アンド・ザ・メイタルズ(Toots & the Maytals)の68年「Do the Reggay」であることが確認されている。「レゲエ」という言葉自体はそれ以前から「ぼろ、ぼろ布、口げんか、口論」という意味のスラングとして使われていて、このスラングが転じてタフな音楽スタイルを指す言葉になった、とする説が一般的。では果たしてその「Do the Reggay」のサウンドはどんなものだろう。

Toots & The Maytals - Do The Reggay



オルガンの使用方法などレゲエと呼ばれる要件を満たしている様な気もするが、まだリディム、特にベースラインとドラムパターンのコンビネーションにおいて未だロックステディのそれ、という気がするがどうだろう?「最初のレゲエ」と目される曲としては、ラリー・マーシャル(Larry Marshall)の「Nanny Goat」といった曲が挙げられる事も多いのだが、オレ自身は、これも「最初のレゲエ」と評される事の多いファウンデーションチューン、リー・ペリー(Lee 'Scratch' Perry)が68年に自ら制作・ヴォーカルを吹き込んだ「People Funny Boy」こそがライズ・アップ・オブ・レゲエである、という立場を取りたい。それはこんなサウンドだ。

Lee Perry - People Funny Boy



3拍目にアクセントをおくドラムスと2拍/4拍の裏打ちのリズムという基本構造は変わらないが、明らかにシャープで重くタフなリディムへと変化している。また、レコードから見つけてきたという赤ん坊の泣き声をコラージュした(方法論としてはサンプリングの元祖の1つだ)実験精神が、ダブも含めたその後の録音芸術としてのレゲエの発展を準備しているという点、あるいはこれ以前のペリーのボスだったジョー・ギブス(Joe Gibbs)への痛烈な攻撃だという歌詞の内容についても、70年代末にかけてメッセージを伝えるための手段としても発展していくレコードメディアのあり方を予見している点、なども高く評価したい。

この様にして、ロックステディからの跳躍を見せたレゲエのサウンドは、66年のハイレ・セラシエのジャマイカ訪問を契機に一般にも広く信仰を集める事となったラスタファリアニズムの精神性を燃料に注入しながら、70年代を駆け抜ける様に進化(深化)の度を強めていく。 ルーツロックレゲエの誕生だ。
以下では、特にルーツレゲエにおけるリディムの変遷を縦糸に、その歴史の流れを紐解いていきたいと思う。


リー・ペリーのアップセッターズ(The Upsetters)を経てボブ・マーリー(Bob Marley)のウェイラーズ(The Wailers)へと参加するドラマー、カールトン・バレット(Carlton Barrett)が開発したという「ワンドロップ」。これはロックステディから続くリディムの強化版として、1拍目にアクセントがなく3拍目をバスドラムとリムショットで強調するスタイルで、ルーツレゲエを最も特徴づけるリディムとなる。

70年代中盤には中国系ジャマイカンであるフー・キム(Hoo Kim)兄弟のスタジオ/レーベル「チャンネルワン(Channel One)」のハウスバンド、レヴォリューショナリーズ(The Revolutionaries)として誕生したジャマイカ史上最強のリズムセクション、スライ・アンド・ロビー(Sly and Robbie)のスライ・ダンバー(Sly Dunbar)が、激しく打ち鳴らされるリムショットや、マーチ風のドラムロールを多用した戦闘的なリディム、「ミリタントビート」(「ロッカーズ」とも)を開発する。
一説によるとこのリムの連打は機関銃の発射音をイメージしているという話もあり、まさにミリタント(好戦的)でレヴォリューショナリー(革命的)なリディム。こういった命名については、キューバ革命や、あるいは当時のジャマイカにおいて、マイケル・マンリー(Michael Norman Manley)の元で社会主義政党「ジャマイカ人民国家党(PNP)」が躍進を遂げていたことと絡めて語ることも出来ると思うが、それはまた別の話。機会があれば語ろう。

スライの発明したミリタントビートの展開型として、拍頭すべてにバスドラムを打ち込みハットとリムの刻みが表情を加える四つ打ちのビート「ステッパー」リディムは、その後90年代にイングランドで勃興することとなるニュールーツレゲエの生命線ともなる重要なリディム。オーガスタス・パブロ(Augustus Pable)の「Pable In Moonlight City」の固く打ち付ける四つ打ちのキックの音色を、あるいはウィンストン・ナイニー・ホルネス(Winston Niney Holness)=ナイニー・ジ・オブザーバー(Niney The Observer)の「mutiny」でまさにスライが叩くミリタントビートの完成型を聴いて欲しい。どちらも掛け値無し、正真正銘のキラーチューン。

Augustus Pablo - Pablo In Moonlight City



Winston Niney Holness - Mutiny



その他にも、バニー・ストライカー・リー(Bunny 'Striker' Lee)おかかえのアグロヴェイターズ(The Agrovators)初期のドラマーであり、ギタリストのアール・チナ・スミス(Earl 'Chinna' Smith)率いるソウル・シンジケート(Soul Syndicate)でも活躍した、カールトン・サンタ・デイヴィス(Carlton 'Santa' Davis)が考案したという、「ッチー、ッチー、ッチー、ッチー」とオープンハイハットを効果的に使った「フライング・シンバル」サウンドも70年代中期を彩ったリディムである。

レヴォリューショナリーズもアグロヴェイターズも、どちらにしろその中核はスライ・アンド・ロビーが担っていたのだが、ボブ・マーリーがインターナショナルな成功をおさめた後の70年代後半になると、レゲエ自体の世界的な認知度が上がる中で、例えばピーター・トッシュ(Peter Tosh)やブラック・ウフル(Black Uhuru)などに帯同して彼らが演奏で世界中をまわる機会も増え、その不在の期間を埋める様な形で78年に結成されたのが、ルーツ・ラディクス(Roots Radics)だ。
性急になり過ぎたミリタントビートをちょっとレイドバックさせるかのように、特にドラマーがスタイル・スコット(Style Scott)になった頃に完成を見た、ワンドロップスタイルをよりタイトに音数を減らし、3拍目にスネアをストンと落とすスタイルは80年前後のダンスフロアを席巻する。オレなんかは単純に「ワンドロップ」という場合にはこちらのサウンドを指すことが多いし、「ダンスホール」といったらこの時期のサウンドを指したい気もする。
彼らのタイトで隙間の多い空間的なリディムは、新興プロデューサーでありアーリーダンスホール期を牽引することとなる、ヘンリー・ジョンジョ・ロウズ(Henry 'Junjo' Laws)のレーベル「ヴォルケーノ(Volcano)」や、チャンネルワンを舞台に、キング・タビー(King Tubby)の愛弟子、サイエンティスト(Scientist)のダブミックスと抜群の相性を見せ、一時代を築く。
以下に挙げた「Joker Smoker」はジャー・トーマス(Jah Thomas)のプロデュースで、ルーツ・ラディクスをバックに、トリスタン・パーマー(Triston Palmer)が吹き込んだチューン。バニー・リーの元で8歳でデビューしたというトリスタン・パーマーも、このアーリーダンスホール期を代表するシンガーの一人。

Triston Palmer - Joker Smoker



リディムがシンプルでタイトになったことによりダブ(ヴァージョン)におけるトラックの抜き差しがより効果的に聴こえる様になった点。また、そのことにより80年代中盤に吹き荒れるコンピュータライズド革命の嵐、言い換えれば打ち込みの反復的なリディムトラックの隆盛に先行する形で、この時期、未だ生のバンド演奏において曲の構成・構造上の試行錯誤が既に開始されている点は、大変興味深い。余談になるが、ドイツのBasic Channelが運営するレゲエ再発レーベル「Basic Replay」が初期のダンスホールを盛んに再発しているのも、この観点からなのかなぁと密かに応援している。

80年代中盤以降のディジタルトラックに対して(この場合デジタルといっても電子楽器を使っているといった程度の意味)、それ以前のバンドサウンドをヒューマントラックと呼んだりするが、その意味においてジャマイカのメインストリームは一旦、一切のヒューマニティーを忘れ去り、歌われる内容も「スラックネス (slackness)」と呼ばれる下ネタや、「ガントーク (gun talk)」と呼ばれる暴力を誇示するようなものへと変わり、ラスタの精神性をも忘れ去ることで新たな時代を迎えるが、ここから先は今回のテーマからは外れる。


こうしてリディムやサウンドの変遷を縦糸に70年代を通したジャマイカ音楽史を語るうえで、最も太い横糸として触れざる終えないのはやはりボブ・マーリーの世界的成功だろう。しかしながら、今更オレがボブの偉大な仕事についてどーこー言ってもしかたがないと思うので、一点だけ。
それは、大ヒットした彼の一連のレコードが、クリス・ブラックウェル(Chris Blackwell)がイギリスで運営していたレーベル「アイランド・レコード(Island Records)」を舞台に発表された点だ。旧宗主国というその歴史的背景からジャマイカとの経済的結びつきも強く、また今もジャマイカ移民の第2・第3 世代が多く暮らすイギリスでは、スカやロックステディの時代から多くのジャマイカンミュージックが輸入され楽しまれていた。1959年設立のアイランドもそんな役割を担ったレーベルの1つだ。リー・ペリーの最高傑作でありダブのマスターピース「Super Ape」もこのレーベルを通して世界に紹介された。
ボブの歴史的名盤の誉れ高いレコード群におけるクリス・ブラックウェルの態度(ロック的なアレンジの導入などなど)について否定的な意見もあるだろうし、リー・ペリーが「クリス・ホワイトウェルは吸血鬼だ(クリス・ブラックウェルはジャマイカ生まれのイギリス人で、白人)」とこき下ろすように、ビジネス面でも必ずしも良い噂ばかりとも言えないアイランドではあるが、それでもやはりこのレーベルがジャマイカンミュージックに対して果たした役割は決して小さなものではない。そしてアイランドを始めとしたイギリスとジャマイカを繋ぐレーベル群が、70 年代中盤から徐々に本国とはまた違ったニュアンスで、独自の進化を遂げる事になるUKレゲエに与えた影響は計り知れないのだ。UKダブやラヴァーズロック、ニュールーツといったUKレゲエの系譜もレゲエというタペストリーを編み込む重要な横糸の一本なので、いつか機会を見てお話できればと思う。
またその他にも、例えばDJ(=トースティング)文化や、ダブ、サウンドシステム、ルーツレゲエを彩るシンガー達やレーベルの数々、プロデューサーの面々、といった魅力的過ぎる横糸の数々についても別項に譲り、今回は筆を置きたい。


という訳で今回はルーツレゲエと呼ばれる音楽の誕生から、そのスタイルの変遷を主にリディムの面から紹介してみましたがいかがだったでしょうか?正直、ある程度の分量で過不足なくレゲエを語るのは無理があるので、今後、回を割って多面的に考察してゆければと考えております。取りあえず次回はみんな大好き「ダブ」について語っちゃいます。
いつも通り、ご意見、ご感想、ご質問、励ましのお便りなどは全て、info[at]oip-label.comまで([at]を@に変えてコピペしてね!文中で紹介させていただく可能性もありますのでご了承ください)!ではまた、See Mi Ya!


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【今月の一曲】

ポレポレ的に注目しまくっているブリストルの新世代ニュールーツプロダクション、dubkasmのビッグチューン。これのダブをジャー・シャカがプレイして話題になったユニットです。先日アルバムも発売され、今後の展開も非常に楽しみです。

dubkasm feat. Lidj Xylon - Every Lion



http://www.myspace.com/dubkasm


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【参考資料】

●「ルーツ・ロック・レゲエ」鈴木孝弥/監修(シンコーミュージック)

●レゲエ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%B2%E3%82%A8

2009年09月07日

WASEDA STREET JOURNAL - Vol.3

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ヤーマンです。だんだんと秋の足音も聴こえて参る昨今ですが、みなさまお変わりありませんでしょうか?
全5回のレゲエ概論シリーズも折り返し地点の今回は、ルーツレゲエにまつわるビックトピックのひとつ、みなさんお待ちかね「ダブ」について語っちゃいます。
前回のルーツレゲエといい、今回のダブといい、テーマが大上段過ぎて無駄にプレッシャーかかりますが、頑張って書いてみますので皆様お付き合いの程をよろしくお願いしますっ!ますっ!ますっ、ます、ま、ま、ま、ま、、、ディレイ(Roland SDE-1000)かけてみました。。。


【ダブの発見】

さぁ、「ダブ」である。疑い様もなく現代の音楽、特に広義のダンスミュージックにおいては最早直接的な影響関係を感じさせる事もなく、その遺伝子が受け継がれているダブ。
オレ自身のことから語れば、最初にダブを意識したのは高校生の時にハマっていたマッシブアタックだと思う。彼らの2ndアルバム "Protection" をマッド・プロフェッサーがダブしたアルバム "No Protection" を聴いて「なんじゃこりゃ!?」と吹っ飛ばされた。その完成度とオリジナリティーは凄まじいものがあると今でも思っているが、幸か不幸か10代のオレはこれがダブってものなんだと思い込んでしまった。
その後、例えば「King Tubby Meets Rockers Uptown」の様なダブの教科書的レコードを買って聴いてみても何かピンと来なかった。じ、地味過ぎる、、、曲が全部同じに聴こえる、、、
単純にオレの頭と耳が未熟なだけだったんだが、ON-Uのような一部のUKダブ以外を聴く機会は、その後もあまり多く無かった。
後年、ルーツレゲエそのものにはまってから、7インチのB面、ヴァージョンとしてのダブを聴くことでようやくダブが理解出来た気がしたし、その魅力についてもより理解出来た。ダブと聞けばディレイとリバーブの派手なエフェクトワークが頭に浮かぶ人が多いと思うし、もちろんそれも大事なファクターなんだが、ダブの本質は実はそこにはないのではないか。
ではそのダブの本質、心の臓はどこにあるのだろうか?


67年のトレジャーアイル(Treasure Isle)スタジオにて、彼らはそれを発見する。
SRS というサウンドシステムのサウンドマンだったルディ・レッドウッド(Ruddy Redwood)は、自らのサウンドシステムのためだけに制作したスペシャルなレコード(ダブプレート)のカッティングのためそこにいた。作業中、トレジャーアイルのエンジニアであったバイロン・スミス(Byron Smith)は誤って曲のヴォーカルをミックスせずにバックトラックだけをカットしてしまう。ここでルディ・レッドウッドは歴史的な決断をする。ヴォーカル無しのそのダブプレートをSRSのダンスでプレイしてみたのだ。すると何故か会場は大盛り上がり。その様子を伝え聞いたトレジャーアイルのオーナーでありプロデューサーでもある、デューク・リード(Arthur "Duke" Reid)は過去のヒット曲のヴォーカルを抜いたインストバージョンを売り出し始め、次第に7インチシングルのB面にA面のインストを入れる事が一般化することとなる。所謂、ヴァージョン(=インストゥルメンタルヴァージョン)の誕生だ。

そして同じトレジャーアイルスタジオで、その光景を目の当たりしていた男が、アートフォームとしてのダブの歴史の扉を開ける事になる。オズボーン・ラドック、後にキング・タビー(King Tubby)として知られる事になるその男こそ、まぎれもなくダブの発見者でありイノベーターだ。
電気技師でもあり、サウンドシステム "ホームタウン・ハイファイ(Tubby's Hometown Hi-Fi)" を運営していたキング・タビーは当時トレジャーアイルスタジオでエンジニアとして働いており、多くのヴァージョン制作を手がける内にミキシングそれ自体の持つ可能性に気付く。また彼のホームタウン・ハイファイでは既に自作のエコーやリバーブが使用され、オーディエンスを熱狂させていたようだ。
次第に彼はスタジオの中で、その2つを組み合わせた実験を開始する。ヴォーカル抜きのヴァージョンの制作時に、各トラックの音量バランスを変えたり、EQを最大限に活かしたドラマチックな演出効果、あるいはトラックミュートを使用した音の抜き差しとエコーやリバーブといったエフェクトのコンビネーション等、これ以降発展するダブの方法論のほとんどはタビーが発明したといっても過言ではないし、現代的に言えば「リミックス」という概念はまさにここで産まれた。

70年代に入ると彼は、トレジャーアイルスタジオから譲り受けた2トラックのミキサーを元にウォーターハウス地区に自らのスタジオ "キング・タビーズ(King Tubby's)" を設立し、歴史を震わせる数々の仕事をこなすことになる。
いくつか代表作を挙げよう。オーガスタス・パブロのロッカーズレーベル音源をダブした「King Tubby Meets Rockers Uptown」はタビーの代表作であり、ダブのマスターピース。全編タビーマナーとでもいうべき手法と空気感が濃密に覆うダブの教科書アルバム。
ジャマイカのミシェル・ルグランことハリー・ムーディー(Harry Mudie)のMoodisc音源をガッチリ組んでダブした「Harry Mudie Meet King Tubby In Dub Conference Vol.1」は、ストリングスやオルガンのアレンジが流麗で、ルーツレゲエ期のジャマイカにあって飛び抜けてオシャレでメロウなMoodiscのトラックとタビーの創意溢れるミックスで、彼の全キャリアの中でもトップレベルの仕事。現代の耳で聴いても殆ど古さを感じさせない奇跡的名盤。
ウィンストン・ナイニー・ホルネス(Winston Niney Holness)のThe Observer音源と、バニー・リー(Bunny Lee)のお抱えアグロヴェイターズ(The Agrovators)の音源の、それぞれのダブをタビーの死後コンパイルした編集盤「King Tubby's Special 1973-1976」は、マスタリングの評判の悪い英Trojanからのリリースながら、聴かれるべき内容を持った好盤。70年代のバニー・リーはタビーズを多用しているため、タビーの作品でアグロヴェイターズ演奏のトラックが使用されたものに当たる機会が結構多い。
ちなみに↓写真右端がキング・タビー。完全に電気屋の親父です。

ジャケット画像(1)


キング・タビーがダブの発見者ならば、それをより前衛的に発展させたのがリー・ペリー(Lee 'Scratch' Perry)だろう。彼はタビーズを利用していた常連の1人でもあった。その2人が邂逅した歴史的レコードが最初のダブアルバムと讃えられる1枚、73年の「Blackboard Jungle Dub」。今はいくつかの再発盤で入手可能だが、極少数プレスだったというこれの原盤は高中音域のギターやオルガンと低音のベースやドラムスをそれぞれステレオのL/Rチャンネルに完全にスプリットしたミックスだったらしい。今では当たり前だが、高中音域のツイーターと低音のウーハーのスピーカーを組み合わせたスタイルでサウンドシステムをはじめたのはキング・タビーのホームタウンハイファイが最初だったという話もあり、73年の時点で驚くべき仕事と言わざるを得ない。
このアルバムでタビーとペリーが果たしたそれぞれの役割については、ご多分に漏れず諸説ある。一説によるとタビーのスタジオの4 チャンネルのミキサーを2チャンネルずつ2人で担当してミックスしたという話もあるが、これは少々眉唾だろう。アップセッターズの演奏にペリーが効果音やヴォイスをオーバーダブし、それをタビーズでミックスしたのではないかと個人的には推察する。タビーが89年に射殺され、ペリーが宇宙に行ったきりになってしまった今となっては確かめる術がないが、このアルバムがダブというものをわざわざレコードで鑑賞するアートの位置まで押し上げた歴史的1枚であることは疑う余地がない。

ジャケット画像(2)

※左から一般的に流通したジャマイカ盤/NYのクロックタワーからのライセンス盤/英Auraluxからの再発盤/リー親分

ペリー自身のダブへの技術的貢献については、彼の諸作、中でも「Super Ape」といった歴史的傑作ダブアルバムに顕著であり、その存在感は唯一無比だ。彼の仕事の詳細については別項に譲るが、ダブ史的に語ればフェイザー(音の位相を機械的にずらしてシュワシュワという効果をえるエフェクター)の使用方法については、まぎれもなく彼の発明であると言えるし、彼自身のスタジオ名からブラックアーク(Black Ark)サウンドと呼ばれるハットがキンキンと響く超ドンシャリサウンドは、タビーズ産のダブとはまた違った意味において、ダブというイメージを代表するサウンドである。


また、ペリー以外にもタビーの発見したダブをその創世記において、より発展させた幾人かのエンジニア、プロデューサー達がいる。
ランディーズ(Randy's)スタジオの専属で、早い時期からダブに取り組んだ名エンジニア、エロール・トンプソン(Errol 'ET' Thompson)が手がけた「Java Java Java Java」。
あるいは、オーガスタス・パブロ(Augustus Pablo)とともに“ファーイーストサウンド”を作り上げたアクエリアス(Aquarius)レーベルのプロデューサー、ハーマン・チン・ロイ(Harman Chin Roy)の手がけた「Aquarius Dub」や、シンガー、プロデューサーであり歯科医でもあるキース・ハドソン(Keith Hudson)がタビーと制作した「Pick A Dub」。
これらの作品はどれも「Blackboard Jungle Dub」と並び極最初期のダブアルバムと呼ばれる名作。

ジャケット画像(3)


一方のタビーは、70年代を通して後進のエンジニアの育成にも力を入れる。タビーズでキングの薫陶を受けた代表的なエンジニアには、後にニューヨークに移りプロデューサーとして名を成すフィリップ・スマート(Phillip Smart)や、タビーの死後キングの称号を受け継ぎ、ダンスホール期に“Slang Teng”リディムでビックヒットを飛ばすプリンス・ジャミー(Prince Jammy)/キング・ジャミー(King Jammy)がいるが、タビーの弟子筋で最もイノベイティブな仕事をしたのは、まだ10代の内にレコーディングデビューし70年代後半から80年代前半にかけてルーツ・ラディクス(Roots Radics)とのコンビネーションでダンスホールに旋風を巻き起こした、サイエンティスト(Scientist)だろう。
サイエンティストという彼の名は、アフリカに起源を持つVoodooの宗教、オービア(obeah)の呪術(=サイエンス)に由来する。彼はタビーの創造した手法を一歩押し進め、より大胆なミュートと、永遠に続いてゆく様なエコーとディレイの渦、そしてマスターテープの最初に入っているテストトーン(発信音)までをミックスして新たな音響空間を創出し、成功を収める。
初期のダブにおけるエフェクト使用の可能性は殆ど、先のリー・ペリーと、このサイエンティストによってもたらされたのではなかろうか。

サイエンティストが全盛を極めた80年代初頭を過ぎると、世はダンスホール時代へと突入、ジャマイカにおいてダブは忘れ去られた存在となり、それ以降、より積極的にダブを発展させたのは、例えばUKのマッド・プロフェッサー(Mad Professor)やエイドリアン・シャーウッド(Adrian Sherwood)、ジャー・シャカ(Jah Shaka)といったヨーロッパのアーティストだった。
80年代から90年代を通じた彼らの仕事は、ヨーロッパのみならず世界中の音楽、特にダンスミュージックのフィールドに多大な影響を与え続け、現在に至る。
また工藤 'Big H' 晴康氏が指摘する様に、ジャマイカでは遂にエンジニアのスタジオワークの域を出なかったダブが、UKのUB40やASWAD、あるいはここ日本のMute Beatの様に、ダブをライブで演奏するバンド達が他所の国において現れて来た事は大変興味深い。皮肉なことではあるが、"ダブバンド"というものはジャマイカには存在しないのだ。
そして今もってダブは、ジャマイカの外側で進化と発展を続けている。


と、ここまで書いてきて、きっと貴方はこう思っている。「だからー、ダブの本質ってなんなんだよ?!」と。
二言で言おう。
ダブの本質とは、「音の抜き差し」と「質感」だ。
ダブがロックステディ/ルーツレゲエのヴァージョンから産み落とされたという歴史的事実を鑑み、即ちダブとは元曲ありきで存在するモノだという、単純な事実を再度確認したい。
その元曲をいかに再構築するかという事こそがダブの本質であって、エフェクトとはそこに彩りを加える調味料でしかない。良いトラック、リディム、演奏があってこそ、初めて良いダブがクリエイトされる。そしてそれを下支えするのが、例えばタビーのスタジオの、彼が入念に手を入れたミキサーをくぐらす事で手に入る音の、あの鉄っぽいざらつき。あるいは、リー・ペリーの大胆なEQ処理による超ドンシャリサウンドの、その質感なのだ。
その辺を理解せずに、ディレイとリバーブかけて「はい一丁上がり!」、という訳にはいかないのがダブの奥深さ。レゲエ以外のフィールドで評価の高いモダン・ダブの作り手達もその辺を理解している人が多いんではなかろうか。Basic Channelのあの異常に質感にフォーカスを当てた音楽に今一度耳を傾けてみよう。
分かった気になっていても仕様がない。
分からなければ、分かるまで、浴びる様に聴き続けるしかない。


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【今月の一曲】

ジャー・シャカ以降のダブシーンにフォーカスしたフランスのドキュメンタリー「Dub Stories」というDVDの日本版には未収録のアバ・シャンティ・アイのダンスの模様。京都で活動するセレクター/シンガーで、アバのクルーの一人、 Shandi Iを起用した日本語の名曲をプレイ。しかしこのオーディエンスの数!
YouTubeにはノッティングヒルカーニバルで、シャンディ・アイがライブでマイクを握るヴァージョンもあるので、興味がある人は各自掘るように!

Shandi I - Inna Sanctuary



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【参考資料】

●「ルーツ・ロック・レゲエ」鈴木孝弥/監修(シンコーミュージック)

●「Dub Stories」(DVD/ナウオンメディア)

●キング・タビー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%83%93%E3%83%BC

●オービア - voodoo study
http://www.k2.dion.ne.jp/~dambala/obeah.html

●ダブ顔研究
http://undo-bu.hp.infoseek.co.jp/dubface.htm

2009年11月03日

WASEDA STREET JOURNAL - Vol.4

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ヤーマンです。ポレポレタクシーの石井でございます。
先日当コラムの読者の方からメールを頂戴いたしました。「(前略)現在進行形のdubにも是非メスを入れていただきたい。(中略)今までのそういったレゲエダブがどんな形で今に生存してるかどうか、けっこう俺はいつもそれを考えているので、それが知りたいです。」というアツいお便り、最高に嬉しいです。
現在連載中のレゲエ概論シリーズ全5回は、むしろ歴史的な事実を概観することでレゲエに対する入り口になればという思いで書いておりますので、自分自身のレゲエ解釈や、あるいは個別のアーティストやプロダクション、UKレゲエやモダンダブ、日本のダブなどについては、このシリーズが終わった後順次書いていこうと思っております。
ですので、しばしファウンデーションにお付き合い頂ければこれ幸いでございます。

そんなファウンデーションシリーズも第4回目となりました。いよいよ大詰めの今回はジャマイカ音楽を巡るカルチャーの一つであります、「ラスタファリアニズム(日本ではラスタファリズムとも)」がテーマです。
とはいえ、宗教学者でも民俗学者でもない私が語れる事は限られている訳ではありますが、この文章を通して、ジャマイカの特に黒人のための新興宗教である「ラスタ」から果たして我々現代の日本人が何を読み取れるのか、そして何を読み取るべきなのか、その端緒を私自身も得られれば。と、このように思っております。
ジャーよろしくラスタファーライどうぞ〜。


【ラスタファリアニズム(ラスタファリズム)の思想】

先ず始めに断っておく必要があるだろう。当然の事ではあるが、オレ自身はラスタではない。ドレッドでもなければ、豚でも牛でも喰うし、政治家としてのハイレセラシエが時には決して褒められた行いを為さなかったことも、何となくは知っている。
ラスタはレゲエ、特にルーツレゲエを聴く時には必ずついてまわる事柄だが、音楽としてレゲエを楽しむだけであれば、別に必要のない知識でもある。ただ自分の体験に照らせば、レゲエを聴き始めて直ぐに、あるいはその前段階から「このジャケットに写ってるオジさん誰だろう?」とか「ジャー、ジャーゆうけど何なのよ?」って疑問に思った覚えがある。
そこから少しずつ調べてみると、レゲエという音楽が反体制のレベルミュージックであるという一つの象徴がラスタにあるように思われて来たのだ。果たしてラスタとは一体なんなのか?


ハイレ・セラシエ・1世

最も有名なジャマイカ人(=ボブ・マーリー)が敬虔なラスタファリアンであったことから、ジャマイカ人=ラスタと誤解される向きもあるようだが、今もって国民の60%超はキリスト教徒(プロテスタントおよびローマカトリック)である。また、ラスタはジャマイカ土着のカルト宗教と呼ばれる事も多いが、ラスタ自体には成文化された教義というものはなく、ラスタ思想、ラスタ運動と呼ばれるように思想運動であって、ライフスタイルや生活信条、ポリシーといった側面が強い様に思われる。
17世紀後半から黒人奴隷に許された唯一の書物=聖書をベースとして、リヴァイバルと呼ばれるアフリカ的宗教運動を経て、キリスト教とアフリカ宗教の折衷という独自の発展を遂げてきたのがジャマイカのキリスト教であり、人類の起源がエチオピアの黒人にあるという聖書の記述への解釈から、彼ら自身のキリスト教を白人種のそれと明確に分け隔てる意味で、エチオピアン・バプティスト派やエチオピアン・メソジスト派、等々と名付け、宗派の違いこそあれ、これらのエチオピア教会はコミュニティの中で重要な役割を担うようになる。そしてラスタもその中から産まれたものだ。
1910年代にアメリカに渡ったジャマイカ人で、パン・アフリカニズムの過激なアジテーターであり活動家のマーカス・ガーヴェイ(Marcus Mosiah Garvey)は世界黒人開発協会アフリカ社会連合(UNIA-ACL)を組織、既に人心に根付きつつあったエチオピア教会の存在と、当時アフリカで植民地化されていなかった唯一の国エチオピアを黒人の魂の故郷とするエチオピアニズムを強力に推進し、故郷(アフリカ)を追われた(ディアスポラ)黒人達にアフリカへの帰還を訴えた。彼の活動の特筆すべき点は、その運動を観念の領域に押し込める事を良しとせず、実際に「ブラックスターライナー」という船舶会社を起こし、アフリカ帰還運動を現実のものにしようとしたところだ。そうした活動の中で結果的に彼はアメリカを追われ、キングストンに戻ってそこで後のラスタにとって最も重要な演説をすることになる。
1927年、彼が「アフリカを見よ。ひとたび黒人が王位に就けば、購いの日は近い。」と叫んだ数年後、1930年にラス・タファリ・マコーネン(Ras Tafari Makonnen/「ラス」は高貴な人、「タファリ」は創造主という意味の尊称)が、エチオピア皇帝ハイレ・セラシエ・1世(Haile Selassie I)として王位に就いた事によって、ガーヴェイは預言者となり、ハイレ・セラシエは現人神となった。
ここにラスタファリアニズムの萌芽が産まれたのだ。

ラス・タファリ・マコーネンとマーカス・ガーヴェイ

※ラス・タファリ・マコーネンとマーカス・ガーヴェイ


ガーヴェイの預言が実際のものとなった1930年以降、狂信的とも言えるガーヴィズムの信奉者であった最初のラスタ、レナード・ハウエル(Leonard Percival Howell)をはじめとした数人の宣教師によって、「ハイレセラシエは生き神であり、救世主である」とするラスタファリ運動が展開されてゆく事になる。
彼らはその神をジャー・ラス・タファリと呼ぶ。ジャー(Jah)とはヘブライ語のヤハウェ(Yahweh)が訛った言葉とされ「神」を意味し、ラス・タファリはハイレ・セラシエの即位前(神となる前)の名前であり、自分自身を神に近づけるために語られる、こう言って良ければある種の題目である。 ラスタでは自己の存在が重んじられるため、weやyouという言葉が使われず、「I and I」という独特な言い回しが使われ、また接尾辞にローマ字の「I」を好んで用いる。ジャー・ラスタ・ファーライ(Jah Rasta Far I)や、ハイレ・セラシアイ(Haile Selassie I)と呼ぶ時、彼らは自分自身と神とを合一させるのだ。レゲエのレコードを買っていると頻繁に出くわす、Jah何某、とかRas何某といったアーティストネームもこの視点に依拠する。

ハウエルの運動は急進的であり、ブラックナショナリズムに満ちた彼らの教えは、時のジャマイカ政府にとっては弾圧の対象となった。彼らは都市部を追われ、丘陵地ピナクルに自給自足のコミューンを形成しラスタ思想を確立していく。
このコミューンにおいて奏でられたアフリカンドラムを主体とした音楽がナイヤビンギ(Nyahbinghi)だ。フンデ(中音部)とベース(低音部)ドラムが一定のパターンを繰り返し、その上でリピーターと呼ばれる高音部のドラムがメロディーを奏でる様に演奏され、宗教的なチャントの詠唱が乗るそのスタイルは、奴隷制の時代から彼らにとってのアフリカの記憶として長く受け継がれてきたドラムを主体とした音楽「クミナ」や「ブールー」から発展したものだ。

ラスタファリアンがドレッドロックスと呼ばれる縮毛を長く伸ばした髪型を取り入れ始めたのは1950年代に入ってからのようだ。その起源は「体に刃物をあててはならない」という戒律によるとも、ケニアの反植民地主義の武装集団「マウ・マウ団」の戦士の髪型によるとも言われるが、どちらにしろドレッドロックスは彼らを抑圧するバビロン側の人間たちを威嚇し、震え上がらせる反体制の象徴となった。
しかし、ドレッドである事がラスタの条件であるように誤解されがちだが、例えばハイレ・セラシエ没後に精神を病み、遂に復帰することの無かった敬虔なラスタ、ジュニア・バイルス(Junior Byles)はドレッドではなかったし、ラスタ運動がピークを迎える1960年代後半以降は、大した信仰心もなくファッションとしてそれを取り入れた似非ラスタとでも形容したいルードボーイ連中が現れるなど、必ずしもラスタ=ドレッドとは限らない。
また、彼らが好むものの中にマリファナがある。驚くべき事ではあるが、ラスタはガンジャが聖なる草として聖書の中で使用を勧められていると考える。当初は合法的であったマリファナは、1938年の農園労働者の暴動を契機に禁止薬物に加えられた。その事により、体制側にラスタコミューンの弾圧を強化させる端緒を開いてしまう事になる。
1954年に行われた大規模な強制捜査により、ピナクルのコミューンは崩壊。その結果、離散したラスタ達はワレイカ・ヒルをはじめとしたキングストンの周辺部のゲットーに集まる事となる。この事が、先に述べたナイヤビンギの音楽が、レゲエにコミットする下地を作った。
スカの代表的なプロデューサーの一人、プリンス・バスター(Prince Buster)が、生粋のラスタマンでありビンギドラムのマスターであるカウント・オジー(Count Ossie)を訪ねたのがこのワレイカ・ヒルであり、カウント・オジー・グループの演奏を録音し、大ヒットとなった「Oh Carolina」がリリースされたのが1959年。
その後も、このナイヤビンギドラムが、ジャマイカンミュージックに大きな変化と影響をあたえていく事となる。

1966年、ハイレ・セラシエがジャマイカを公式訪問。飛行機のタラップに立ったジャーを、10万人のラスタが迎えた。この訪問は、ジャマイカ政府が仕掛けたラスタへの宥和策であったが、その意図に反し、爆発したラスタ達の熱狂は、更なるラスタファリアンの裾野を拡大し、この思想運動のひとつのピークをもたらす。
1970年代にかけてレゲエに移行するジャマイカンミュージックは、ラスタの思想をそのサウンドやリリックに取り入れる事で、ルーツレゲエというスタイルを確立する。


ここまで見て来たように、ラスタ思想のその最も根幹にあるもの。それは自分が黒人であるという事実だろう。
彼ら黒人は、すべからくアフリカという故郷を追われた悲しみ(ブルーズ)を背負っている。ナイヤビンギ、ボボシャンティと並ぶラスタの最大分派であるイスラエル12氏族や、ルーツレゲエ期のコーラストリオ“イスラエル・ヴァイブレーション”の例に見られるように、ラスタ達は、同じく故郷を追われた古代イスラエルの民に自らをなぞらえてみせたりもする。
この一点をとってみても、果たしてこの思想が我々日本人にどれだけのリアリティーがあろうか?この疑問が、レゲエに魅せられ、より深く入り込もうとする者の中に、ある種の戸惑いと逡巡をもたらす。
しかしながら、こうは考えられないだろうか?
人間が生きて行く事、その中にある苦しみや悲しみ、そして喜びは、人種や国家や時代を超えたものではないか。もちろん彼らの苦しみとオレの苦しみが同じだと言う気は毛頭ないが、自分がこの時代に、この国で生き抜いて行く、その事について廻る苦しみと喜びは、常に普遍化できない絶対的な感覚として自分自身の内にある。
例えば、抑圧された社会環境の中で、ラスタ思想に自らの苦しみを解放し、サウンドシステムでのダンスに日々の生活の喜びを感じるジャマイカの人々の姿に、我々は何かを学ぶ事が出来るのではないか。そう考えた時、「バビロンと闘うラスタ」というイメージが我々の内側に活き活きと立ち現れる。
自分自身をバビロン(社会や自分を抑圧する全てのもの)の内側で闘うバッファローソルジャーだとイメージしてみること。そしてレゲエを聴く事。この事がオレに勇気を与えてくれること、それもまたオレ自身のリアリティーである。

※バッファローソルジャーとは、アメリカ陸軍に置かれた黒人部隊で、南北戦争をはじめ様々な戦争で活躍した。白人国家の中で差別と戦いながら誇り高く仕事を全うした黒人という意味で、ボブ・マーリーの楽曲の中でも、ラスタと重ねる様に歌われている。


最後に、イギリスの白人という立場から20年以上自分自身のレゲエをクリエイトし続ける男、Disciples(=Russ D)の言葉を引用して筆を置きたい。

「黒人以外は、rastafariと言ってはいけないと言ってるんじゃないんだ。なぜ彼らがそう言っているのか、その事をまず考えて欲しいんだ。ラスタはジョークじゃないんだ。」(Russ D a.k.a. Disciples)


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【今月の一曲】

90年代のUKニュールーツシーン随一のアンセム、Disciplesの「prowling lion」です。キラー過ぎて一時期ポレポレタクシーでは毎回かけていました。「あいつまたディサイプルズのあれかけてるよ!」と言われた事もありますが、しょうがないじゃん、カッコいいんだから。ジャーシャカに命名されたというDisciples(=Russ D)は20年経った今でも変わらず精力的に活動しており、その存在自体が既にクソシブいです。リスペクト!!!

Disciples - prowling lion



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【参考資料】

●「ルーツ・ロック・レゲエ」鈴木孝弥/監修(シンコーミュージック)

●「ベース・カルチャー」ロイド・ブラッドリー/著、高橋瑞穂/訳(シンコーミュージック)

2010年02月07日

WASEDA STREET JOURNAL - Vol.5

WSJタイトル画像

ヤーマンです。
前回更新よりすっかり間が空いてしまい、うっかり2010年も明け切ってしまいました。
明けましておめでとうございます、ポレポレタクシーの石井でございます。
ご挨拶が遅れてしまいましたが、みなさまいかがお過ごしでしょうか?

かくいう私はといいますと、年明け早々にとても悲しいニュースを耳にしてしまいました。
70年代ルーツレゲエ期を代表するプロデューサー/シンガーの1人であるヴィヴィアン・ジャクソン(ヤビー・ユー)が亡くなったのだそうです。

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ウェ ブサイト「Reggae Vibes」によれば、ヴィヴィアン・ジャクソンは火曜日(1月12日)ジャマイカ、脳卒中で倒れ同日の午後11時死亡したという。また、ウェブサイト 「ReggaeFrance.com」は死因が破裂動脈瘤だったと詳しく述べている。享年63歳。

http://www.worldreggaenews.com/article.php?category_id=3&article_id=1594

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当初の予定ですと、WASEDA STREET JOURNAL Vol.5としてジャマイカにおけるサウンドシステムカルチャーを採り上げるつもりだったのですが、今回は予定を変更し、私の大好きな名プロデューサー、 ヤビー・ユーのその素晴らしい仕事のいくつかを紹介し、故人を偲んでみたいと思います。


Yabby U



【ジーザスドレッド - ヴィヴィアン 'ヤビー・ユー' ジャクソン】

ヤ ビー・ユーは、幼少期より健康に問題をかかえ、貧しい中でかき集めた金でスタジオに入り制作したというシングル「Conquering Lion」で72年にデビュー。当時ジャマイカで広まりつつあったルーツ・レゲエ、ラスタ運動の中で重要なヒットとなったこの曲の中で、「yabby yabby you」とリフレインされるコーラスからYabby Uという愛称で呼ばれるようになる氏は、深いラスタへの造詣を持ちながら、同時にキリスト教の世界観を大きく取り入れ、ハイレ・セラシエではなくイエス・ キリストを信仰した事から、"Jesus Dread"とも称される。
自らのレーベル"Vivian Jackson"、"Prohets"を舞台に作品を発表し、75年にはシングル「Conquering Lion」をはじめ、「Run Come Rally」、「Jah vengeance」といった数々の名曲を収録したアルバム「Conquering Lion」をリリース。これは間違いなくルーツ・ロック・レゲエのマスターピースであり、70年代を通したルーツ・レゲエのシーンの中で金字塔とも呼べる 重要なアルバム。
ルーツレゲエを聴くなら避けては通れない道、それがVivian Jacksonです。

Yabby You - Conquering Lion




Vivian Jackson-Run Come Rally




他のビックプロデューサーと異なり、自らのスタジオを持たないヤビー・ユーは、リー・ペリーのブラックアークやキング・タビーズでの共同作業の中で上記「Conquering Lion」ほかダブを含む傑作を生み出した。
また、ウェイン・ウェイドやマイケル・プロフェット、後にブラック・ウフルのメインボーカルとなるマイケル・ローズといった若手シンガーを育て上げた手腕、そしてその風貌、作品の精神性と相まって導師と呼ぶに相応しい人物。
70年代後半にはTrinityやDellingerと言ったDeeJayのプロデュースも盛んに行う。その2人による「Jesus Dread」は、"ルーツレゲエ" かっこいいイントロ部門があったら迷わず第1位に推したい名曲。

Yabby You-Jesus Dread




ヘビーでコンシャスな歌詞と、幽玄でありつつもボトムのしっかりしたリディム、サウンド、という確固たるオリジナリティーを持った楽曲の数々をプロデュースし続けた70年代のヤビー・ユーにハズレなし!と個人的には思っています。

もしあなたがYabby Uの作品を耳にしたことが無ければ、最初の1枚として、著名なレゲエ評論家、スティーブ・バーロウ氏主催の英国のリイシューレーベル"Blood & Fire"が全盛期のYabby Uの仕事をCD2枚組にまとめた「Jesus Dread 1972-1977」をオススメしたいのですが、一昨年に惜しくも"Blood & Fire"が潰れてしまい現在は廃盤扱いになっています。
ネットやお店を探せばまだあるとこもあると思うので、見つけたら即ゲット、マストバイでお願いします。

Jesus Dread 1972-1977




Yabby You - Love Thy Neighbour - Live

       

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